第128号 サンデル先生の正義
白熱講義マイケル・サンデル第1章
以前に流行った法哲学の講義についてです。
覚えている方も多いと思いますが、中身についてはどんなものだったか忘れていると思い ますので、各章の概略を説明していきます。
第1回 殺人に正義はあるか
まず事例です
あなたが電車の運転手であるとして、ブレーキが壊れていました。
このまま行けば線路工事をしている5人をひき殺してしまうとします。
ここで、ハンドルをきれば脇で工事をしている人1人を殺してしまうとします。
あなたはどうすべきかという問題です。
また、今度は、あなたは電車の運転手ではなく、傍観者であるとする。
よこにいるデブを電車の前に突き落とすと電車が止まり、5人が助かるとすると、のデブを突き落としても かまわないかという問題です。
さらに、突き落とす代わりに、このデブが寄りかかっている壁が崩れそうなので、
あなたがレバーをおせば壁が崩れてデブが飛び込んで5人が助かるというのは、
最初のハンドルをきるのと同じ条件と考えていいのか否か。
この事例は、まず、正義は命の数などの結果の大きさに影響されるのかということと、多くの命を救うためにあえてハンドルをきるという動作の有無が正義にどのように影響するのかである。
サンデル先生の説明。
正義をなにで計るのかということです。帰納主義者は、行為の帰結に道徳性を求める。5人の命のほうが1人の命よりも大きいと考える。
行為主義者は、結果に関係なく、行為の本質に正義を求める。失う命が1人であっても「ある行為」をすることはできないとし、これを「定言的」であるといいます。
結果にかかわらず、無条件で「だめ」と主張することをいいます。
結果主義者は、功利主義で有名なベンサムです。
行為主義者は、定言的道徳理論のカントです。
人を殺そうとして殺したのは殺人罪ですが、ピストルの弾がそれ、結果的に誰にも傷をつけなかった場合でも、殺人未遂罪で罰せられるのなぜか。
自分の家でエッチなビデオを1人で見てるだけなのに猥褻物保有の罪で罰せられるのはなぜか。
さらに、ついでに、自分の運転でシートベルトをしなかったら、なぜ罰せられるのか。
ここで、海がめのスープの話をします。
1884年9月に実際にあったミニョネット号事件を少し脚色しています。
ある日、仲のいいABCの3人が難破し、3人だけが生き残ったのですが、Cは弱ってお り、そう長くはないと思われました。
次にAが弱ってきたので、Bは海がめのスープを飲ませました。
そして、AとBだけが海がめのスープを飲んで助かりました。
数年後、Aはあの日以来海がめのスープは飲んでいなつかので、海がめのスープで有名な レストランに連れてきてもらいました。
Aは、海がめのスープを一口飲んだところ、「これは海がめのスープではない」と言って翌日自殺しました。
そうです。Cは海がめのスープを飲んでいないのです。
そして、実は、Aも海がめのスープを飲んだのは初めてだったのです。
AやBの行動は非難されるべきなのでしょうか。
また、どのような条件があれば「非難されない」から「非難される」に変わるのでしょうか。
われわれの仕事では、売上げの計上漏れ(過少)から売上除外(重課)になるのは、どのような条件が必要かと似ています。つまり、非難されるべき要素はどこかということです。
次に、手続きが適正なら、非難されないのでしょうか。
少しでも調査手続きに違法があれば、売上除外は免除とするのか、少々の調査手続きミスは多額の不正の前では消えるのか。
ここで先程のカントの定言的道徳、つまり無条件でやってはいけないことは、不正の売上除外か適正な調査手続きかという問題と、さらにそもそもこれらは定言的道徳なのかという問題があります。(どちらも条件付で成立するってこと)
最後に、適正な手続きをすれば、なんでも許されるのかという問題があります。
たとえば、法的に(ルールとして)適正な手続き(本人の同意)をすれば、男性調査官が女性納税者を裸にして搜索が可能であった場合に、実際に搜索してもかまわないのかという問題です。(悪法も法か。それとも、悪法は法でないのか。)
白熱講義マイケル・サンデル第2章
第2回 命に値段をつけられるか
費用便益分析は企業の経営戦略でよく用いられている。
ある年、チェコ政府がこの費用便益分析で、喫煙の便益分析をしたところ、喫煙によって、将来、政府が負担する年金•医療費•住宅費から、国民が喫煙によって早死にすれば政府は得をすると算出した。
また、フォード自動車がある車種の燃料タンクが追突されると爆発することが判明したが、あえて修理しなかった。
費用便益分析によると修理費用の総額よりも追突後に補償料の支払いの方が安くなると判断したためである。
この話を聞くと、費用便益分析だけで判断することに違和感を覚えることがわかる。
この功利主義に対する反論としては、
第1に、功利主義は個人の権利若しくは少数派の権利を尊重していない。
第2に、人々の好みや価値を合計することはできないというものである。
そうすると、次の事例ではどうか。
3000人を殺害しようとする集団の1人を捕獲した。
口を割らないので、3000人の命が危機的になった場合、この者を拷問してもいいかという問題である。
3000人が目の前で殺されるのを防ぐために、拷問をするのは、やはり正義に反するといえるか。つまり、単に量の問題ではないということである。
次に、自分の喜びを他人の喜びに対してより高級で価値があるとすることができるか。つまり、便益に量のほかに質があるのかということです。
(ベンサムかミルか)
費用便益分析では全てを分析することはできないということか。
それとも、やはり、まだ、すべての便益を数値化して分析することは可能とするのか。
ミルによると、正義はより高級なもので、個人の権利は特権的だが、功利主義の条件から外れない場合においてのみ尊重されるとしている。
ここまで来ると、功利主義から外れているのではないか。
ミルがしようとしたのは、個人の権利などの人道的問題や、高級な喜びと低級な喜びを区別する必要性を考慮に入れたうえで功利主義の計算方法を拡大し、修正できるかどうかを確かめようとすることだったとサンデル先生は説明している。
白熱講義マイケル・サンデル第3章
第3回 富はだれのものか
ミルは、個人の権利は特に尊重されるべきものだと考えている。
他に比べようもないほど拘束力の強い部分であるとまで言っている。
われわれの仕事からみると、不正発見と増差所得は比べることができるか。
特に海外不正は高級かという視点に近いかもしれません。(不正至上主義)
ミルは、正義を行うことが社会全体として長期的に見ていい方向に向かうと考えているが、 これでいいのか。
つまり、人は功利主義的に全体としていい方向に行くことが理由で正義を守るのかという問題が生じます。
つまり、そのような理由ではなく、人間は本能的に正義を守るのではないかということです。長期的な効用を最大限にするためではないと感じているのではないかということです。
次に自由原理主義者を呼んでくることにします。
自由原理主義者は、個人の自由や所有権を含む権利を他のものと比べることができないほど非常に重要と考えている。
つまり、幸せとは、効用の単なる合計ではないと考えているのです。
そうすると、この自由原理主義者は、父親的な干渉主義や道徳的な立法を否定します。
シートベルトの着用法や同性愛者の間の性的な親密さを禁止する法律などには反対して います。他人に迷惑をかけていないからです。
そうすると、自由原理主義者は、所得や富を裕福な者から貧しい者に再分配するという目的で作られた課税法や政策はいかなるものでも認められないこととなります。
再分配のための課税は、ある種の強制であると考えているのです。
そして、この前提としては、収入を得るための手段を公正に取得したか(取得の正義)。また、その分配が自由な意思決定によるものであるかが重要です。
そうすると、多数の餓えている人たちを助けるために、ビル・ゲイツに高率課税することは許されるか否か。
課税は強制労働と同じだとすると、それは奴隸制であり、そうすると、国家が個人の部分的所有者となることと同じではないかと考えているのです。
個人の権利を最重要なものであると考え、人間を単に「好みの集合体」とはみなしたくないのであれば、そこから導かれる根本的道徳的概念は、私たちは自分自身の所有者、持ち主であるという考え方になります。
ここで、功利主義の考え方が破綻しました。
そうすると、自由原理主義を進めていくと、課税もないので、消防も民間会社の経営となり、火がでても消防隊は、会員以外の家の火は消火しないということになります。
そして、10%の貧しい人を助けるために富裕層10%に特別税を課税するという法律を立法することは、結局なにもしない80%の多数が決めることとになるという意見があり、これは、衆禺政治ではないかということです。
しかしながら、10%の富裕層は社会から多くの恩恵を受けているので、税金を払ってこの恩恵に答えるべきであるという意見もあります。
白熱講義マイケル・サンデル第4章
第4回 土地略奪に正義はあるか
リバタリアンの主張は、たとえば代議政府や民主的に選ばれた政府であっても、個人には政府が覆せないある種の個人の基本的権利が存在するというのである。
これには、生命・自由•財産に対する自然権が含まれ、所有権は単なる政治や法律の創造物ではなく、個人が財産を保有する権利は、国や政治の存在以前のものであるという意味である。(ジョン•ロック)
そうすると、この考え、つまり自然法主義でいくと「悪法は法でない」ので従わなくていいということになるのでしょうか。
自然法主義では、自然法は不可譲なものであり、自然法を侵害する自由や自分を奴隸として売る自由もないと考えている。
しかし、最低限の制限は必要であり、これによって、ロックは、完全なリバタリアンではないということです。自然法主義の考えは、われわれは神の被造物であるとの考えから来ています。
個人の所有権は、自然が備えておいた状態から取り出すものは何でも自分の労働を交えたものであり、彼自身の何かを付け加えたものであるから彼の財産となると考えます。
したがって、エイズ薬品を開発した製薬会社の特許はすべての人が尊重すべきであることから、アフリカの国がエイズ薬品は高価であるから購入できずに死亡してしまうこととなるため、特許侵害もやむを得ないとした主張は認められないとしました。
ロックの考えでは、政府や法が存在しない状態でも私有財産が生じるということになります。つまり、他人の同意なしに私有財産が生じることとなるのです。
そうすると、土地の占有を認めることも、植民地化することも可能となります。
しかしながら、このロックの考え方の難しいところは、自分の生命や財産が尊重されているとはどういうことか。どのような状態であるのかが不明であり、結局は政府がそれを決めることとなるということです。
同意について
同意に基づいて設立された正当な政府にはなにができるのか、そういった政府にはどんな力があるのか。
これは、全ての人が、自然権を主張すると荒々しく暴力的になるので、社会契約に参加するためには、人は自然状態の執行力を放棄して政府やコミュニティを作り、多数派が決めたことには何であれ従うことに同意しなければならないとしました。
これは、私たちは政府を受け入れたからといって、権利そのものを放棄したわけではないので、多数派には、市民一人一人の基本的な自然権を尊重し、実行する義務があるとしたのです。
政府は大きな市民の負担なしにその存在を支えられるものではありません。政府の保護を享受する者は皆、その維持のための割り当てを自分の財産から支払うべきである。しかし、そこには、本人たち、又は彼らに選ばれた代表者によって与えられた、本人の同意、すなわち、多数派の同意がなければなりません。
したがって、税金を課すためには、同意が必要であるが、それは個々人の納税者の同意ではく、私たちが自然状態を抜け出し、最初に政府を作ったときに、社会の中にいる私たちが全員で与えた同意で、集合的な同意であるとしました。
つまり、私たちは、生命・自由•財産に対する不可譲の権利を持っているが、それらを放棄する権利はもっていない。政府が制限されているのは、そのためであって、私たちが制限することに同意したからではない。
私たちは同意する際に権利を放棄することができないから政府は制限される。
これが、正当な政府に関するロックの説明の真髄です。
ではなぜ、私たちは命の犠牲の徴兵制や財産の放棄を強制する課税を多数派に縛られるのでしょうか。
それは、恣意的でない一般的な法の下で、政府が選択したものや多数派が行ったことであれば、それは人々の基本的な権利を侵害することにはならないと考えているからです。
つまり、リバタリアン的であるが、最低限の制約もあるというロックの考え方は、だれにとって最も有利であったかということです。
当時のアメリカの状況(個々人が人間としての自由も欲しいが、インディアン(先住民族)を先住地から排除したい。)が、そうであったことが背景にあるとサンデル先生は説明しています。
では、自由原理主義者が最も大切にする自己所有権に対して、貧しい人は、自らこの自己所有権を全うするために、又は家族を養うために、パンを盗んでもいいかという問題が生じました。これを正当化することができるかということです。
つまり、社会の中で生きていくためには、自己所有権を一部放棄する必要があるのではないかということです。
自分が自分を完全に所有するということは真実かという疑問です。
そうすると第1回目に戻って、全体を生かすためには、一部が犠牲になるのは正しいということになるのかという疑問が生じてきます。
白熱講義マイケル・サンデル第5章
第5回 お金で買えるもの買えないもの
前回のロックの考えでは、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利があります。
国民が社会に参加し、政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておき、一度その義務を引き受ければ、多数派に束縛されることに賛成したのと同じことになるというものである。
では、政府は、国民に命を賭けて戦争に行けといえるのかという問題がある。
ロックは、政治的権威や軍事的権威が恣意的に権力を行使しないことを条件として、行けと言えるとしている。
次に、必要な兵士の数を確保するために、次の方法が考えられる。
1 給与を引き上げる
2 徴兵制にする
3 外部委託する
南北戦争では、徴兵制を採用していたが、お金を払って交代してもらうことができたそうです。そうすると、上記1や3の場合を含め、徴兵制でない限り、命を賭けた兵士が、貧困層に偏ってしまうことになるという意見がある。
つまり、命をお金で買うことになるということです。
さらに、反対意見の中には、戦争に行くのにお金のために行くのはいかがなものかというものである。戦争には愛国心で行くべきであり、そのために志願制がいいというものです。
サンデル先生が言っているのは、命はお金で買えるのかということです。
次は、人間の生殖の問題です。精子や卵子の売買についてです。
たとえば、代理母契約をして、子供を生んだ場合に契約どおりに子供を引き渡す義務があるかどうかです。
代理母契約をしても、代理母には、不可譲の権利があり、引き渡すか否かは代理母しだいであると考えるのかということです。幼児売買と同じ不正な契約か。あくまで有効な契約か。
どんな契約も契約として有効か(リバタリアン)。
してはいけない契約は契約でないのか。
白熱講義マイケル・サンデル第6章
第6回 なぜ人を使ってはならないのか
今回は、カントです。カントは功利主義を認めなかった。
カントは、すべての人間は私たちが尊敬するに値するある種の尊厳を持っていると考えていました。私たちはみんな、理性的な存在である。
つまり、理性を行使できる存在であり、自律した存在であるという意味で、自由に行動し選択する能力があるという意味です。
カントのいう自由とは、単に望むことをすることができるという自由ではなく、欲望のままの行動は本当の自由な行動ではない。
単なる必要性である。自身で選択したものではないということです。
カントの自由に行動することとは、自律的に行動することです。そして、自律的に行動することとは、自分自身の与えた法則に従って行動することです。
自由に行動することとは、与えられた目的のために最善の手段を選ぶことではなく、目的 自体のために目的を選ぶことであり、単なる物理の法則ではないということです。欲望のままに行動することは、自律ではなく、道具になっている。
つまり、他律的である。
したがって、ほかの人の福祉や幸せのために人を使ってはいけない。
功利主義の誤りはここであるとしています。
功利主義から質を重視して、長期的に考えるべきであるとしたミルとその結果が同じであっても、ミルの考えは人を単に道具として使っていることになるとしています。
では、なにが行動に道徳的価値を与えるのか。
それは、結果ではなく、動機や意思の質、 そして行為がなされる意図であるとしています。重要なのは動機である。
善意はその結果ではないので、目的が達成しなくてもいいのです。
そして、行為に道徳的価値を与えることができる唯一の動機とは、義務の動機であるとし ています。
たとえば、評判が悪くなるから、悪いことはやめておこうというのは、自己の利益という誤った理由であり、道徳的な価値はないということです。
つまり、正直者は得をするという考えは誤りであるということですね。
だから、人が義務によって行動し、自己の利益といった動機に抵抗して、人は初めて自由に自律的に行動していることとなるのです。
したがって、いい人になりたいので、道徳性を求めるというのは、微妙なところです。
では、道徳法則とはなにか。カントは、人の尊厳を尊重する必要があるのは、私たちみんなが理性的な存在であるからで、誰もがもっている理性の能力を実践することが私たちすベてを尊厳に値するものにしていると考えています。
つまり、自律的に行動することとは、結局私たちが自分に与える法則に従って行動し、理性を実践することであるというのです。
では、私たちが自分自身に与える法則は、だれが行っているのか。
理性が行っているのです。
では、理性は意思をどのように決めているか。
ひとつは、目的に対して手段を選ぶ理性である。
たとえば、いい人と思われたいのであれば、悪いことをしてはならない。
次に行為がそれ自体において良いと示され、それゆえにそれが理性と一致している意思のために必要であるかかということである。
(それ以上の目的に依存した命令でないということ。それ自体に価値がある。道徳の最高原理。でもそれって、やっぱりミルが言ってることとそれ程違いがないのではないかという意見があります。)
人間は目的自体として存在し、誰かの意思によって恣意的に使用されるために手段として存在しているのではない。
したがって、お金で心を買うようなことをしてはいけないし、 お金のために心を売ってはいけないということです。
絶対的にしてはいけない行為がある。殺人であり、自殺であったりする。
それ自体が正当化されるものではないので、結果的に殺人とならなくても殺人をしたのと同じくらいにしてはいけない行為である。
いわゆる行為無価値的な考えである。これは、パターナリズムになっていく傾向があります。シートベルトをしないのは犯罪かという問題に戻ることになります。
白熱講義マイケル・サンデル第7章
第7回 嘘をつかない教訓
今回もカントです。カントの考えでは、
1 義務と自律とはどうすれば両立できるか。
人間が自律的に行動しているといえるは、義務という名の下に何かを追及すること
2 義務に応えるということにおける重要な尊厳とは何か。
自分の個人的な利益のためではなく、義務のために何か善い道徳的な行為をすること
3 義務と自律という2つの概念は対立しているようにみえるがいかがか。
道徳法則を受け入れることを自分で選んでいる。
つまり、強制されたものではなく、道徳法則が自分で自分に課したものであるので対立しない。また、道徳法則は主観的なものではなく、普遍的なものである。
私たちが、自由に自分の良心から道徳法則を選んでいるが、誰が主体的な行為者かというと、それが理性である。純粋理性である。
私たちは、〇〇であるべき世界(自由の領域)と、〇〇である世界(必然の領域)に生きている。したがって、科学は道徳的真理を導くことはできない。
では、嘘をつくことは、カントの世界ではどうのように考えるのか。
当然、嘘をつくことはいけないことであるが、ときと場合によるのではないか。
殺人犯が、あなたがかくまっている友逢について、「家にいるのか」と聞かれたら、なん とこたえるのか。正直に「はいいます」というのか。
カントによると、あからさまな噓と誤解を招くような言い方で述べられた真実の間には大きな違いがあると考えている。
したがって、嘘も方便は、嘘になるのでだめってこと
つまり、嘘と誤解を招くような言い方が同じものであるとするのは、結果主義の考えによるものであり、行為主義では同じではないということです。
答えは、慎重に表現を選んだ言い逃れには、嘘をつかないという道徳法則の尊厳への一種の敬意がある。そして、その敬意は、あからさまな嘘の中には存在しないということです。殺人犯が諦めてどこかへ行ってしまうことを望むだけです。コントロールしてはいけないのです。
次に、カントは、正義にかなう法律は、ある種の社会契約から発生すると考えます。
しかし、実際に討議の結果できた法律は必ずしも正義ではないと考えます。
カントは、権利の原理を生み出す契約は、シンプルな理性の理念であると考えます。
実際の討議による法律は、現実の利益や価値観を持っているからです。
つまり、功利主義により作られたものと考えられるからです。
ロールズは、正義論で、「無知のベール」を考案しました。
これは、これから討議するにあたり、それぞれがどんな人間かお互いに知らないという状況を考えます。これが無知のベールです。これが平等を保証すると考えます。
この場合に合意した原理が正義の原理と考えるのです。
1 現実の契約はいかにして契約の条件を正当化するのか
カントもロールズも正当化しないと考えます。合意の内容が公正かどうか不明であり、合意をしたことだけでは正当化しないということです。
2 現実の契約は、どうして私を拘束し、義務を負わせるのか。
例えば、ロブスター100匹を100ドルで買う合意をした後、2分後にやめたと一方的に宣言した場合でも、100ドル支払う義務はあるか。
義務がある理由として、
1 自律という理想から、契約したときに、自らその義務を私が私に課したと考える。
合意することにある種の道徳的な重みがあると考える。
しかたないよな。契約したんだもんなってこと
2 現実の契約は相互的な便益の手段であるということ。
しかたないよな。既に便益を受けたんだもんなってこと
便益が生じれば、たとえ合意がなかったとしても義務があるといえるか。
いえると考えた。
例えば、修理代で5 0ドルいるといわれた、合意もないのに修理をしだした。
修理が終わった場合、支払う義務はあるか。
便益があったので、たとえ合意がなくても支払う義務があるとの考えである。
したがって、現実の契約が道徳的な効力を持つのは、自律と互恵性がある場合である。
そして、自律は、参加者の交渉能力に差がある場合は実現しない。
また、互恵性は参加者の知識に差がある場合は実現しない。
そうすると、自律と互恵性が偶発に左右されず、実現されるためには、無知のベールによる平等な人々の間の仮設的な契約だけが正義の原理について考える唯一の方法であるとロールズは考えたのです。
白熱講義マイケル・サンデル第8章
第8回 能力主義に正義はないか
今回は、分配の正義です。
ロールズは、仮設的契約は、無知のベールの背後にある平等な原初状態の下で実現されると考えました。無知のベールの背後で人々が選択する原理はどのようなものか。
たとえ少数派の一員となっても抑圧を受けるのは嫌ですが、私たちは自らの基本的権利と自由をいかなる経済的便益とも交換しないので、功利主義ではない。
次に、ロールズは、最も恵まれない人々の便益となるような社会的•経済的不平等だけが認められるという格差原理を提唱しています。条件付平等の原理です。
最も恵まれない人々でない人には便益とならないということです。
つまり、無知のベールなので自分や他の特定の人が便益や損失を受けるかはわからない。討議したあるシステムに賛成するか否かのみ間かれている状態です。
たとえば、申し込み順で1000人が東京大学に入学できるというシステムについて考える。
他の人は、能力順となる。つまり、能为順は本当に公平かということです。
経済的•文化的な家庭環境に大きく左右されないかということです。
結局自分だけの能力ではないのではないかということです。
ロールズは、形式的に機会だけが均等に与えられても、このようなリバタリアン的な考えだけでは十分ではないと考えています。
さらにロールズは、ある人が強い勤労倫理で持って、根気強く頑張り努力したとしても、 その努力すら、幸運な家庭状況により生じるものであるから、私たちは自分の功績だとは主張できないと言っています。
さらに、さらに、心理学者は、人は生まれた順番で、勤労倫理や頑張り、努力の大きさが変わるとしており、つまり、生まれた順番も自分の功績ではないのであるとロールズは言っているのです。
競争で全員を同じスタート地点に立たせた場合、一番足の速い(要素持っている)ランナーが勝つでしょう。
つまり、分配が道徳的に恣意的な要素に基づくものであるということに 違和感をもつのであれば、論理的に考えてみることとします。
ロールズは、人は自らの幸運によって便益を得ることができるが、それは最も恵まれない人が有利になるという条件においてのみであると考えています。(格差原理)
つまり、ここでは、すべてをほって置く考えは、リバタリアン、機会均等が能力主義。さらに格差原理によるロールズの平等主義が並べられているのです。
最も恵まれない人々を助けるために税率を9 9 %なんかにすると、能力のある人が、働か なくなるのではないかという意見があります。
つまり、ある程度の勤労に対するインセンテイブが必要であるとするものです。
また、努力すること自体に価値はないのかという意見もある。
リバタリアンからは、私たちが自分自身を所有しているという考えを侵害するのではないかという意見もある。
ロールズは、リバタリアンからの意見に対しては、特定の地位に生まれるのが不思議ではなく、単なる事実である。
正義は制度がこのような事実を扱う方法にあると反論しました。
さらに、自分自身の所有に対しては、私たちは自分自身を完全な意味では所有していないと応えました。無知のベールの考えの延長線での意見です。
努力に対する反論は、勤労倫理や誠実に頑張る意欲でさえ、私たちが自分の功績だとは主張できない家庭の環境や、社会的•文化的偶然などによって決まると反論しています。
また、能力主義の擁護者が、分配の道徳的な根拠だと信じているのは、本当は努力ではなく貢献であると。どれだけ貢献したかが重要なのだと考えているのであると反論しました。
つまり、道徳的な適価と分配の正義との間には、何の関係もないということだと言っているのです。
ロールズは、例として、宝くじに当たれば賞金を貰う資格はあるが、道徳的とは何の関係もないということ。また、野球であっても優勝すればトロフィが貰う資格があるが、その人物が勝利に値するかとは別物だということとを言っているのです。
つまり、ロールズは、分配の正義は、道徳的な適価の問題ではなく、正当な期待に対する 資格の問題であると言っているのです。
野球が上手であれば賞賛される世界に生まれてよかったねってこと
しかし、違う世界であっても、稼ぎは少なくなるが、価値は減らないといっているのです。逆もそうです。この世界で発揮する才能を持っていなくても価値は減らないってこと
つまり、エリー卜大学に入ることは、一生懸命に努力したからそれに値する者への報酬や名誉なのか。それともエリート大学に入ることや名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのか。とロールズの格差原理が問いかけているのです。
白熱講義マイケル・サンデル第9章
第9回 入学資格を議論する
今回は、前回の道徳的な適価と分配の正義との関連について考えます。
事例は、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)です。
アファーマティブ•アクションにより、白人の女性が、彼女よりも成績が劣る黒人の女性が大学に合格したにもかかわらず、彼女が不合格となったのは違法であると主張した。
大学の合格には、学業成績や入試の点を審査する際に、背景にある教育的に不利な条件を考慮に入れて合否を判定すべきか否か。
つまり、大学側が主張する学生構成における人種や民族は、多様性があったほうがいいとの考えは不公正か。
アファーマティブ•アクションに賛成する意見は、
1 それまでの教育環境が不利だったことから生じる結果の是正である
2 歴史上の不正義に対する償い
3 多様性が必要であること
大学が望む多様性からすると、道徳的な適価と分配の正義との関連と同様に、白人の彼女は学業に頑張ったが、入学が許可されるには値しないということになる。
学業だけではないということです。
ではなぜ、大学は、白人であるという自分ではコントロールできない要素を判断に取り入れたのか。
大学は私的な機関であるから、どのような使命も自由に決めてもよいからか。
サンデル先生は、悪意をもって決めつけないものであるならば、選抜の方針が、人間を、その機関の社会的目的にとって貴重な存在として扱い限り、アファーマティブ•アクション は承認できると考えている。
権利中心主義をとるリバタリアンも、平等中心主義のロールズも、分配の正義や福祉国家などについては意見を異にするが、正義とは、美徳や道徳的適価に報いたり、それを称えたりするものと理解されるべきではないとしている。
では、ここで正義を美徳や真価や道徳的適価に対する名誉であるとはっきりと結び付けている思想家を呼んでみることにする。アリストテレスである。
アリストテレスは、正義とは、人々に値するものを与えること、与えられるべきものを与えることである。それぞれに美徳を持つ個人と、適切な社会的役割,との間に、適切な適合関係を見出すことである。
平等である人々には平等な物が割り与えられるべきである。
では、平等とはなにか。
大切なフルートを手に入れるべき人はだれか、一番上手なフルート奏者である。
したがって、分配は人を差别するのである。
すべての正義は差別を内包するとアリストテレスは考えている。
したがって、大切なフルートを持つべき人は、アリストテレスの考えでは、フルートが下手な金持ちが持つべきではない。偶然でもだめ。フルートを吹く能力によることとなる。
なぜなら、フルートが存在する目的がすばらしい演奏のためだからである。
すばらしい演奏を聞いて嬉しくなるのは副次的効果である。
だから功利主義ではない。
つまり、目的が明確になって初めて正義にかなった分配が可能になると考えている。目的から逆算するので、目的論的道徳論理という。
そうすると、アファーマティブ・アクションに戻って、大学教育にふさわしい目的や目標とは何かということになるが、このように、目標から論じることは正義について考えるには不可欠とアリストテレスは言っているが、正しいのかということを考える必要がある。
白熱講義マイケル・サンデル第10章
第10回 アリストテレスは死んでいない
今回も、アリストテレスです。
アリストテレスの正義論では、社会的実践や制度の意義、目的に関する議論が避けられないということです。
では、事例です。ゴルフに関する論争です。
足に障害のあるゴルファーに対して特別に試合中のカートの使用を許可すべきかどうか。 これは、社会的実践の目的、この場合は競技の目的と、名誉に値するべき資質とはなにかという議論です。
つまり、目的論と名誉に基づく分配の正義の関係を明らかにします。
1 ゴルフは歩くことが競技の一環であり、歩くことがゴルフの本質的な要素であるので、歩くことができなければプロとして競うことはできないという意見があります。
これは、歩くことを含めてゴルフであり、それがゴルフのスポーツとしての名誉であり、ゴルファーとしての名誉であるという考え方です。
2 当人は歩くことができないので、特に有利になっているわけではないので、カートの使用を認めるべきであるという意見があります。
歩くことは、ゴルフの一部ではあるが本質ではない。穴にボール入れる技術を競うものであるという考え方です。
3 裁判官は、ゴルフの目的など考えることは法廷の役割ではない。単なる娯楽であるから、こだわる人はこだわればいい。市場が決めることであるという意見でした。
最後の意見は、反アリストテレス的な意見であり、ゴルフがスポーツか否かという問題をはらみ、ゴルフがスポーツとして認められ称えられるか否かという名誉という問題をはらんでいることになります。
4 全員にカートの使用を認めるべきであるとの意見があります。
5 それに対して、全員がカートに乗れば、それはスポーツでなくなると反論があります。
6 車椅子バスケットボールがあるように、カートに乗るゴルフに出場すればいいという意見があります。
ここでの問題は、名誉です。友達同士のゴルフではいいが、最高のゴルファーを決める大会で、カートに乗った者が優勝するのはいかがなものかということです。
スポーツと見世物の違いは、スポーツが卓越性や美徳を引き出し、それを称えて評価するということである。
そういったスポーツの美徳がわかる人こそ、理解ある本物のファンであり、彼らにとってのスポーツ観戦は、単なる娯楽ではないということである。
アリストテレスは、正義とは適合させることである。正義とは、人々に釣り合った役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を字えることである。
しかし、そこに自由の余地はあるのか。たとえば、自分にぴったりで適切な社会的な役割があるとすれば、自分で自分自身の社会的役割や人生の目的を選ぶ権利はあるのかということです。
たとえば、門番のように、ある仕事にふさわしい人が、もっと高いところを目指したい、 別の生き方を選びたいと思ったらどうするのか。
君は門番に適合しているので、門番をする のが正義であるというのがアリストテレスの考え方になる。
カントとロールズは、正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けた。
そして、目的論の論争で重要なのは、正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義と人が役割を適合させることだと考えれば、自由の余地が残されない。
そして、自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割や伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではないということになります。
宿題:権利は善に優先するか。
自由とは自分の役割や目標•目的を選択できることなのかどうか。
白熱講義マイケル・サンデル第11章
第11回 愛国心と正義のどちらが大切か
今回は、アリストテレスに対するカントの反論にコミュニタリアンの参加です。
権利が保証される公正な枠組みを整えて、その枠組みの中で、人々がそれぞれに思いを描く「善き生」を追求できるようにすることは大事だが、ある特定の「善き生」の概念に基づいて、法律や正義の原理を定めることは、強制の危険を冒すものであり、認めることはできないとして、カントは、アリストテレスの考えは間違っていると主張しました。
これは、市民がそれぞれに思い描く役割の概念を自由に追求することが必要であるからです。
そうすると、自由な人間であるとはどういうことかという問題がでてきました。
アリストテレスでは、人間は、自分の潜在能力を発揮する能力がある限り自由であるとしました。つまり、役割分担です。
カントは、自律的に行動する能力という、自由についてよく知られた厳しい考え方です。
しかし、カントの考えに従えば、一般の人々に広く認められ称賛される、道徳的•政治的な責務を説明できなくなってしまうとの反論があります。
さらに、コミュニタリアンからカントへの反論として、自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定され、負荷をかけられている存在であり、単なる個人として善を求め、美徳を実践することはできないと主張します。
リベラルの観念では、道徳的•政治的な義務は、二つあり、一つは、「人として人を尊重する」といった私たちが人間に対して負う義務であり、普遍的なものである。
もう一つは、 自発的な責務で、約束など自分が同意したことによって発生する特定の誰かに対して負う義務です。
コミュニタリアンからすると、このようにすべての義務を、自然の義務か自発的な義務のどちらかにしてしまうと、構成員としての責務や連帯の義務という第3のカテゴリーを捉え損なうと考えているのではないかと反論しています。
例えば、自分の子供と他人の子供が溺れていたらどちらを助けるか。
逆に年老いた自分の親と他人の親の面倒をみるとするのは、自分の親の面倒が優先するとする考え方の方が道徳的に筋が通っているとは思わないだろうか。
これは契約や同意から生じたものではありません。
また、第二次世界大戦中にレジスタンスのパイロットが、ドイツ軍が占領している村を空爆することになった。その中に自分の生まれた村があったので、その村の空爆を拒否しました。
これは、フランスの解放のために必要なことであるが、許されることでしょうか。
さらに、日本政府が、日本人を優先的に健康や教育や福祉についてより大きな責任を負っているのでしょうか。
ロールズによると、普通の市民には政治的義務はない。
しかし、特定の市民が自ら望んで同意したうえで、政治的義務を選択し、引き受ける場合は別であるとしています。
つまり、愛国心はコミュニティから生じる義務ではありません。
そうすると、コミュニテイの構成員であることから生じる義務は、集合的な利己心ではないのかということです。
コミュニタリアンは、人間には、自分のアイデンティティを形成するコミュニティの人々 に対する共同的な責任があり、そこから来る根本的な道徳的義務があると考えます。
しかし、コミュニティで育つ過程で、互恵性に基づいて、ある種の義務を負う様になるのは道理にかなっているが、最初から道徳的な義務を負っているというには、もっと強い理由が必要ではないか。でないと、道徳の白紙委任状になってしまうとする反論もあります。
そうすると、普遍的な道徳的観念や人として人に対する敬意よりも、コミュニティへの忠誠心が勝るべきと考えることはあるのでしょうか。
たとえば、自分の家族が罪を犯し、逃走しているとき、警察への情報提供を拒否していいのでしょうか。
つまり、私たちは複数のコミュニティに属している場合、何を根拠に優先するコミュニティを選択するのでしょうか。
コミュニタリアンは、特定のコミュニティに存在する「善き生」という観念から切り離して正義の原理を見つけることはできないと主張します。
そうすると、そのような考え方によると、「権利」が常に「善」よりも優先されるということがないとすれば、正義とはただ単に、その時代の、そのコミュニティにおいて、たまたま是とされた価値観や習わしから作られたものにすぎないことにならないかという反論があります。
これに対して、コミュニタリアンのウォルツァーは、正義は社会的な意味に相関しており、ある社会が正しいのは、その社会の実質的な生が、その社会の構成員の共通の理解に忠実な方法で営まれている場合であると主張しています。
白熱講義マイケル・サンデル第12章
第12回 善き生を追及する
今回は、前回に続いて、我々にはコミュニティの構成員としての義務があるという考え方についてさらに議論する。
カントやロールズの考え方は、普遍的な念願、つまり個人を個人として扱うという考え方、つまり、構成員としての義務は、普遍的な義務にいつも劣るという考え方です。
つまり、友人への特別な配慮は偏見になり、いかに人類全体のことを考えていないかということになってしまいます。
モンテスキューは、本当に有徳な人は、最も遠い他人を助けるためも、友人に対するのと同様に迅速に駆けつけるという。しかし、完全に有徳な人には友人はいないだろうともいった。
ここで、正義と善を結びつける2つの方法を区別することが重要です。
1つは、相対主義的な方法で、権利を考えるため、正義を考えるために、ある時代のあるコミュニティに広がっている価値観に頼る方法です。
つまり、正義を特定の文化の共通認識 に忠実なものとして受け止めることです。
しかしこれでは、その時々のその時点では正義であるので、正義をまったく慣習的な環境の産物にしてしまうことになってしまいます。
2つ目は、非相対主義的な方法である。
これは、権利がもたらす道徳的な価値や、目的に内在する善に頼ることです。
そうすると、権利を承認するかどうかは、それがなにが重要な人類の善を促進するかで決まります。
しかしながら、私たちは多元的な社会に暮らしており、人々の間で善についての合意は存在しません。
したがって、特定の目的や善に依存しない正義や権利の原理を見つけようとするのです。
たとえば、同姓結婚の例を出します。
同性愛は道徳的に許されるのか。結婚の目的はなにかといった個人の見解を、国家が同姓結婚を認めるべきか否かという問題から切り離して考えることは可能かどうかを検討します。
社会の制度としての結婚の目的があり、生殖という目的に名誉を与えることであるという意見があります。
さらに、政府は同姓結婚を禁止することは必要ないが、後押しする必要もないという意見があります。
そして、同姓結婚がいいのであれば、一夫多妻結婚も認められるのかという意見もあります。
そうすると、国は結婚の適切な目的をめぐる道徳的•宗教的な論争について態度を明確に することなしに、同姓結婚の問題を判断することが可能かどうかという問題が生じます。
判決文によると、「多くの人は、結婚は男女間に限るべきであり、同性愛行為は道徳に反するという強い宗教的•道徳的な信念を持っている。
同時に多くの人が、同性愛者には結婚する資格があり、彼らは異性愛者と等しく扱われるべきだという、同様に強い宗教的•道徳的な信念を持っている。
どちらの見解も、我々の前にある問題には答えていない。
重要なことは、個人の自律性と法の下の平等の尊重である。
重要なことは、個人が、2人だけの約束を交わす相手を自由に選ぶことである。」
マサチューセッツ州最高裁判所
裁判所はリベラルな中立性をはるかに超えている。
裁判所は公式な承認という形で、結婚を名誉あるものとして祝福し、肯定しています。裁判所は、結婚の目的についての議論を避けることはできないと気づいたのです。
中立の立場に立つことはできないということです。
以上から、正義と権利の議論において、善を論じることが避けられないのであれば、善を論じる方法とはどのようなものか。
まずは、アリストテレスが指摘したとおりのやり方で進みます。
次にロールズの正義論的に進むこととなります。
ロールズは、正義の観念は、自明の前提からは導き出されない。
それは、多くの考慮事項が相互に支え合い、すべてが一つの首尾一貫した見方に整合することで、正当化されると説明しています。
つまり、ロールズは、善は多元的であるが、正義については同様ではないと考えているのです。
サンデル先生は、正義についても、多元性がいえるのではないか。どうしたら、意見の合わない同胞市民を尊重することを認める社会に辿る着くことができるのかを考えました。
サンデル先生は、同胞市民の道徳的•宗教的信念を無視するのではなく、それらに関わり、 関心を向け、ときには挑み、競い、そしてときには耳を傾け学ぶことである。と説明しています。
最後に、なにが正義でなにが正義でないかを勉強してきました。
違法とは正義に反するものです。
重加算税を課すに当たり、仮装•隠蔽の事実が必要ですが、調査官が調査したその事実に対して、重加算税が課されることが本当に正義であるのかどうなのかと考えるようになってもらえたでしょうか。
仮装•隠蔽や売上除外•架空人件費という単なる文言にとらわれることがないように。
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