第172号 現代思想
今回のシリーズは「現代思想」です。興味がある方もない方も、聞いたことはあるかもしれないけどよくわかりませんという反応だと思います。本科試験にもFP試験にも出ませんが、こんなことかと思っていただけたらと思います。
第1話 ニーチェ
現代思想というのはニーチェから始まります。(正確には、ニーチェとフロイトとソシユールですね。)それまでのものは哲学といいました。哲学は真理や正義を求める学問でしたが、ニーチェ以降は考え方みたいな感じで、ちょっと違うので、名前も変わったのです。
有名な作品は「ツァラトウストラはかく語りき」ですね。ツァラトウストラというのは、舌をかむような名前ですが、ゾロアスターのことです。このゾロアスター教の創始者とニーチェの対話を記載したものです。
いままでの哲学は、言っている内容を検討していたのです。生きるとはなにかとかですね。それが、ニーチェは、なんでこんなこというのか。という視点からみるようになりました。
つまり、言語の中で、真理や正義を議論していたのが、その言葉の背景を議論の対象にしたのです。
ニーチェの思想を考える上で、必要なワードとして、ニーチェは人間の生を肯定しています。そこから、超人主義、権力への意志、ディオニソス英語でバッカスが出てきます。
いままでの思想がアポロンであったものを、ディオニソス的な人間のより深い部分での感性というか考えをピッパリだしたのです。
ひとりひとりの人間は弱い人間であり、人間という普遍なものではなく、その個性に着目し、それを克服していく超人の思想です。表面的なアポロン的な部分より、各個人の深層の中にあるディオニソス的な部分が重要である人間の生を肯定しているのです。
つまり、現代思想とは個人に着目し、その背景を読み取ることです。そして再度そこから全体を積み上げて社会を見ていくことです。
たとえば、ヘーゲルの師であるスピノザは、「哲学の目的とは目の前の世界のなかに永遠を観照(本質を極めること)すること」であると言っています。ニーチェとはまったくの反対です。
次に超人ですが、これは、人間というのは中途半端な存在であり、不安定な存在である。ちょうど綱渡りをしている人のようだと。こういう人間の条件から目をそらすのではなく、厳しくそれを見つめて克服していくことであるということです。そして、大きくなること、より強い力を持つことへの意志というものが生であるという考えです。そこから外在的な基準がなくなったということを「神は死んだ」というフレーズになるのです。
次に力への意志ですが、ニーチェは、人々はニヒリズムに陥っている。そして、これらの人々の心はルサンチマン(怨恨)に支配されている。といっています。
つまり、自分の生きていることが不遇であり、充分に報われていないという感じ、そういう不遇感から発して、正義を唱えること(社会主義の革命など)となると言っています。こういうのが人が言葉を発する背景にあるということです。
つまり、生の目的はなにかという問いに対して、ニーチェはより大きく、強くなることであるといっています。これが、力への意志です。
最後に、ニーチェの言葉ですが、「大事なのは、その人が言った言葉の内容ではなく、誰がそれを言ったかです。」同じことを言っても、調査官が言うのと、署長が言うのでは違うってことです。
第2話フロイト
フロイトの場合、前回のニーチェの「背景にあるもの」をより前面に出してきています。ニーチェは、近代哲学の中心である主観と客観の外に人間が生きていると考えました。
前回説明しましたように、ニーチェは、「なにを言っているかではなく、だれが言っているのか」がキーワードでしたが、フロイトは、「知っていながら知らない」がキーワードです。
これが精神分析学となっていきます。
フロイトは、人間の心の世界がどういう構造をもっているかという点からとらえようとしました。
ヒステリーの原因は、煙突を流れるものが詰まっていることから生じるので、これを他人にしゃべることにより自分なりにわかってくると、掃除されて流れるようになると考えました。
このように人間の心の中でうごめいている力、これが煙突を流れるものに相当しこの力を無意識といいました。
次にフロイトは、夢をどういうふうに読んでいくかという作業をはじめます。
夢のなかにも無意識に願望を充足したいという欲求があり、また、こころの中に抵抗があります。素直に願望を充足させるのをどこかに押しとどめるものがあります。フ口イトはこれを夢の検閲といっています。
夢で見ていること、例えば誰かの髪の毛を切る夢は、いじめたいという願望の代理であるというように考えます。
傘や水道の蛇口は何かの象徴として現れているとか考えます。これによって、夢を分析していくことをします。
夢でなくても、自分でも思ってみないことを考えたりすることがあります。それは、自我の世界ではなく、超自我と呼ばれる無意識の世界です。
そして、この無意識の世界は、幼児のころの虐待や、すでに記憶からはなくなっているが経験したことが影響していると考えます。
つまり、自覚している世界の背景にあるものが重要であるという意味でニーチェと同じことを言っているわけです。
そうすると、タブーというものがありますが、これは、結局は心の底の願望であり、それを抑えているとういう解釈になります。
このようにして、フロイトは、心の中の葛藤など、心をモデルとして世界を説明しようとしているのです。
つまり、フロイトの説では、聖書や近親相姦、性欲などがテーマとされ、心の深層心理を説明することにより、世界を説明しているのです。
精神分析学では、ユンクも有名です。
フロイトは、夢は願望の実現として考えていますが、ユンクにとっては、無意識からのささやきと解釈しています。
たとえば、夫が戦争に行って前線に行っている中で、家のドアをたたく夢をみて、最後に、そのドアをたたいていたのは夫の友人だったという夢をみたとします。
フロイトでは、部屋の中に入れることは、部屋は女性の性器を代理した表現で、夫の友人に対して性的な欲求を持っていたが、それに対する罪悪感から、気味の悪いものがドアをたたいている夢をみたと解釈します。
ユンクでは、本当はあなたの持っている不安というのは、もっと親しいものであって怖がらなくてもいいということを夢が教えていると解釈します。
夢占いもこの2つの流派となります。どちらが好まれるかとういうとユンク派の夢占いのほうが人気があります。神秘的なので、自分のいいように解釈できるからです。
というこうとで、現代思想の始まりの二人目であるフロイトもニーチェと同様に目の前にあるものだけではなく、その背後にあるものを重視する必要があるということを言っているのです。
それによって、世界をそして、カント先生の言っていることも説明できるといっているのです。
カントによれば、良心というのは「〜をなすべき」という声を聞く力です。それによって初めて、人間は自由を手に入れることができるといいました。
ニーチェは、こういう良心というのは、ルサンチマン(恨み)が生み出すものであるといいました。背後世界がでっち上げたものであるしています。
フロイトは、なぜ心の中にそういう力ができるのかを考えます。それは、いろいろな規範や道徳が人間の心の中に入って来るからであると考えました。
第3話ソシュール
今度は、言語学です。
言葉の研究者は、いろいろな民族で言葉がちがうという現象にぶつかるわけですが、その違う言葉の一番底には人間の普遍的な思考様式というのがあり、その道具として言葉があり、それがそれぞれ日本語や英語に別れているんだという考えが強かったのです。
つまり、この考え方の背景にあるのは、言葉というものを、事物の名称の目録であると考えているのです。
言葉が違っても、同じものを指していると考えているのです。
ソシュールの考え方は、まったく逆で、ものが先にあって、それに言葉をつけたと考えるのではなく、人間の認識とは、言葉を通じてしかありえないのではないかと考えたことです。
たとえば、今、オオカミという言葉があります。イヌとは区別されています。
ここで、オオカミという言葉がなくなっても、あのオオカミと言われた動物がいなくなるわけではありません。そうすると、オオカミという言葉がないので、イヌに分類されることになります。
つまり、先に、イヌとオオカミを区分しているから、イヌとオオカミがいるのだということです。こういうのを「差異の体系」といいます。
つまり、ものが先にあって、差異があるのではなく、先に差異があるという考え方です。シニフィアン(意味するもの)とシニフィ工(意味されるもの)で説明します。
つまり、シニフィアンとは、聴覚映像されるもの、つまり、その言葉を聞いて心の中に想像するものです。シニフィエとは概念のことです。
だから、大阪弁や秋田弁で少々違った言い方をして、オオカミという発音に近い発音を聞いた場合にはオオカミに聞こえるのです。
つまり、ある発音にくっついているのがシニフィエ(概念です)です。
つまり、言葉というのは記号であるということです。実物とは関係がないということです。これで、コミュニケーションをとることができるのです。つまり、虹の色は6色でも7色でも虹なのです。
また、まだ明治のはじめのころ、日本に「愛している」ということばがなかったときには、「愛しているという感覚」がなかったのではないのです。
ちなみに、昔、テレビで言っていましたが、I Love Youを訳すのに「愛している」という言葉がなかったので、「私は死んでもいい」と訳したらしいです。
そうすると、言葉自体に意味があるのではなく、言葉は記号であるということがわかります。パンダはパンダですが、ダンパであってもよかったのです。
赤信号がそれ自体に止まれの意味があるのではなく、止まれというメッセージなのです。そう決めたのです。
そうすると、言葉には、自らが使用している言葉、これをパロールといいますが、これには、その背景がくっついてきます。
私たちは日本語を使っていますが、自分の気持ちを言葉にするとき、日本語で話すことになります。私たちは、ここに言葉という制度の中で話をすることになります。
ソシュールは、差異の体系により、重要なのは差異であり、相対的であるということを言っています。
そして、オオカミがオオカミであるのは、オオカミと決めたからです。
そして、人間の認識とは言葉を通じて行うのであるということです。
そして、その言葉、つまりパロール(私たちの場合は日本語)には、文化や伝統、歴史がその背景としてついてくるのです。
第4話ハイデガー
今回はハイデガーです。
ハイデガーは、今ここにいること、あるいは科学が説明できることの外に人問が生きている意味があるということから、存在の意味を解釈しようとしました。
つまり、「ある」とか「いる」ということの意味はなにかということです。
まず、主観と客観です。主観というのは私たち自身の意識のことです。
そして、客観的に存在するとはどういうことか、ソシュールのようにシステムや構造というものに客観性を求めていく考え方と、現象学的な考え方です。
それまでの哲学が、まず外にコップというものがあって、自分が見たと思っているモノが、外のコップと一致しているかどうかを問題としましたが、現象学的な考え方とは、 現象学者であるフッサールは、自分の意識が経験した事実から出発することとしました。
そうすると、とりあえず言えることは、自分がコップをみてコップという印象をもつた。そして、そういう事実が自分の意識にあって、経験されているということまでは言えそうです。
しかしながら、そこから客観的にコップが存在するとまではまだいえません。そうすると、これは自分がコップという印象をもったという事実の経験があった。
そして、この自分の中のイメージというのは、自分が勝手に作り出したものではなくて、どこかこの外に関係しているものであると自分の頭の中で考えている世界です。これを「本質直観」といいます。
つまり、私たちは、それが材木でできていようが、ガラスでできていようが一目見てコップとわかるとういうことです。認識できるということです。デカルトは、客観というものを神が作ったものを分類することであるとしました。
しかし、私たちは神ではないので、その分類の基準があやふやであり問題となりました。
その後、客観とは見えるものの背後にあるものまでを含めて客観というのではないかということになりました。
鯨はなぜ哺乳類かということです。その分類方法は本当に正しいのかということです。
そして、この背後にあるものは人間です。歴史についても、人間自身についても、単に実証的な知識だけではすべてを説明することはできないということです。
ヘーゲルは、これを含めて歴史の理論として体系化しようとしました。
そして、実存主義のキルケゴールは、今ここにいること、あるいは科学が説明できることの外に人間が生きていることに意味があるといい、ヘーゲルを批判しました。
その次に、ハイデガーは、自分がこの世界のなかにいるという事実について考えました。
自分が世界の中にいるということの内容は、自分の意識にはよく見えないということです。そして、ハイデガーはこの場合の自分のことを現存在といいました。
現存在としての人間を、いわばモノとしての存在ではなく、ありかたをもった存在として考えます。
つまり、「人間がいる」ということは、「自分が知っている」ことよりも前に先にあるということです。つまり、「実存が先行する」ということです。
デカルトの世界では、私の目の前にコップがあるという神の代理としての、神の視線からのコップの存在でしたが、ハイデガーの世界では、コップは、デカルトのようにこの世界にあるのではなく、この私にとっては「飲むためのもの」という形で出会われるんだということです。
つまり、ものとは、「〜のために存在する」ということです。
そうすると、次に時間とはなにかですが、ハイデガーによると、過去というものはただの昔の客観的な時点にあるものではなく、たえず今「反復」されているものが過去であるということです。
だから、それは記憶であり、反復であるというのが過去の意味だと言っています。
こうして、「存在と時間」ができあがっています。
つまり、すべての存在は、単にそこにあるというのではなく、背景があり、意味があるということです。
第5話 サルトルとレヴィ=ストロース
サルトルといえば、実存主義で、レヴィ=ストロースといえば、構造主義ですね。サルトルで有名な作品といえば、「嘔吐」です。
公園でマロニエの木をみたら吐き気がしたという話です。
なぜ吐き気がしたかというのはまた今度です。
サルトルは、人間の意志の根拠は無であるといいました。
それまでは、人間がなにか一つの行動をするときの理由はなにかということを近代哲学は縷々述べてきました。
つまり、サルトル以前は、行為や運動は、なぜしなければいけないかなどを客観的に説明しようとしてきましたが、サルトルは、客観はあるかもしれないが(物理的に、そうせざるを得ないなど)、人間が何をするかというのは決まっていない。
だから、人間がなにをするかは、基本的に自分で「選ぶ」ことであるということをいいました。
そのため、自分で自分をこういう状況の中に投げ入れるというのがサルトルの行動の理論となるわけです。つまり、なにをするのも完全に自由って考えです。
それに対して批判したのが、構造主義のレヴィ=ストロースです。
今度は文化人類学です。いままでの文化人類学は、デカルト的な視点つまり神の視点から未開人をみてきたのです。
未開人は知識がないので、わけのわからない野蛮なことをやっていると考えてきました。タブーなんかがそれです。
レヴィ=ストロースは、この文化人類学に構造主義を当てはめたのです。
つまり、未開人は遅れているとか、合理的でないとか、そういう概念をはずし、未開人が行っている行動もある意味合理的であるのではないか。その構造、つまり背後にあるものはなにかということを考えました。
近親相姦のタブーを考えます。親族制度そのものです。まず、交叉イトコ婚という概念があります。日本ではあまりなじみがありません。
イトコはイトコです。
というのは、多くの種族では、交叉イトコと平行イトコを区分しており、交叉イトコの結婚は奨励されるが、平行イトコの婚姻は近親相姦であるとして禁止されている種族もあります。
いままでは、これを未開人の知識のなさや、道徳性のなさと見てきたのです。俗にいう犬畜生扱いです。
レヴィ=ストロースは、これについて、多くの事例を収集することにより検討しました。
まず、交叉イトコですが、交叉イトコとは、自分の両親それぞれの兄弟姉妹で両親とは異性の兄弟姉妹のおじさんおばさんの子供ことです。
だから、逆に平行イトコとは、両親それぞれの兄弟姉妹で、両親と同性の兄弟姉妹の子供を平行イトコといいます。
たとえば、父親の弟は父親と同性ですから、その子供は自分にとって平行イトコになります。だから、父親の妹は父親と異性ですから、その子供は交叉イトコになります。
さらに、種族によっては、母方の交叉イトコとの結婚は奨励されるが、父方の交叉イトコとの結婚は禁止であるとかの場合もあります。だから、近親相姦のタブーとは、遺伝子の問題であるということのみでは解決できません。
レヴィ=ストロースは、これに構造つまり数学を取り入れたのです。
たとえば、フォークダンスの入れ替わりを考えてください。くるくると入れ替わっているようですが、実は、一定の法則でもう一度同じメンバーと組むようになるのです。
つまり、いろいろな近親相姦のタブーの法則は、数学的つまり、女性の交換という視点から数式をみると解決できたのです。
この関係性が問題だったのです。これが構造主義です。構造主義は関係性をとらえる考え方です。
しかし、構造主義が本当に客観的なのかどうかという問題や、構造主義は静止的に説明しているが、なぜそのような構造が出来上がったのかという歴史的な側面がないという批判がでました。
これが、次回からのポスト構造主義という考え方です。
第6話ジャック=デリダ
デリダの核心は、同一性への批判と文書にすることが大事ってこと
キーワードは脱構築です。ずらすことです。
今、「私は、一見、ここで無関係に見える3つのテキストを集めてみました。
これはこの3つのテキストのうち関連性を見出した最初の試みであるが、その関連性はある閉じられたものとして固定されてはいけない。」という言葉を、デリダは「この読本に読まれるいくつかのテクストは、いまだかつて、そのうち2つが、とある検討会の記録の中で互いに遠からぬ場所に位置しているのを除けば、1つの場所を共有したことがない。おそらくこれからもないだろう。」という表現をします。
普通のことなんですが、それをあたかも3つぜんぜん別な「ある力」によって引き寄せられここで一緒になり、また、別れていく。
このテキストはそういう本であると言い換えます。かっこいい言い方ですね。
まあー種のロシアフォルマリズムのようです。
たいしたことを言っているわけでもないのに、形容詞や副詞などをことばのあちこちにちりばめて、浮いたようなことをいうことです。
ちなみにテキストというのは、教科書という意味ではなく、文章のまとまりという意味でテクストともいいます。
つまり、デリダは、言葉をある決まりきった使い方ではなく、ずらしているのです。同一性への批判ということです。実質的に同じことであっても同じじゃないってこと。
そうすることにより自由になるってことです。
また、たとえばルソーが「自然に帰れ」と言ったときには、自然に即した純粋な感情のあり方をイメージしているじゃないか。とか、レビー=ストロースも文字を持たない未開人を引き合いにだすことにより、どこかヨーロッパ文化中心主義を批判しているんじゃないかとか言っているわけです。
つまり、デリダは、こういう自分たちの外のどこかに自然なものをイメージすることによって批判するのをやめろって批判しているのです。
戦前にお前は非国民だといいました。お前は日本人ではないと言っているのです。日本人が日本人に言っているのです。アメリカ人には非国民とはいいません。日本人に対して日本人ではないといっているのです。
そうすると、「お前は日本人のくせに」を言いたくて、そして言わずに、日本人でないといっているのです。つまり、事実の命題から価値に関する命題に変換しているのです。
これは、日本人が日本人であるという同一性が生成していると考えるのです。
また、現象学の世界では、窓の外の景色を見て、ここでは、立体駐車場があると直観したといいます。
これが私の意識のなかにあらわれて、しかも頭の中だけの妄想ではなく、自分の意識の外側の何かと関係していると考えます。
デリダは、このように現前している、つまりあらわれているものを疑わないところを批判します。
ここには、自分自身の経験のなかに疑いようもなく現前しているものの同一性への確信があると、デリダには見えるわけです。
「うる星やつら」の高橋留美子ワールドを思い出しますね。この世界は実は存在していなくて、誰かの夢の中ではないかと疑うあれです。
「ある」の反対は「ない」ですが、あるかも知れないし、ないかもしれないはだめなのか、また、あると同時にないというのはだめなのか。「シュレディンガーの猫」はいないのかということはどうですか。
また、私が100円玉をどこかに隠して死んだ場合、この100円玉はあるのかないのか。邪馬台国の遺跡はあるのかないのか。今発見されれば、以前からあったことになりますが、発見されるまではないのですか。
ヘーゲルはこういったあるとかないとかを弁証法で昇華させて絶対精神で統一させるのです。神が創った絶対的真理はあるので、これを探していると考えるのです。
これに対し現在思想は、この統一されたヘーゲルの外にでようとしているのです。真理はない。あったとしても相対的であると考えます。
最後に、文書にすることは、文字が、書き手から読み手に移転しますが、書き手が考えたことが100%読み手に移転しているのでしょうか。
読み手は自分の読み方で自由にその文字(テキスト)を読んでいいのです。
作品を自由に批評していいのです。作品を書き終えたときは、すでに作者の手から雕れているのです。作者だけのものではありません。法令も同じです。
法令解釈とはなにか。立法府で作った法令を行政府が解釈して行政行為を行い、その行為に対して司法府が法令解釈権に基づき解釈判断します。
では、もう一度、法令解釈とはなにか。
第7話ドウルーズ=ガタリ
ドウルーズ=ガタリとは、ドウルーズ(哲学史家)とガタリ(精神分析医)の2人の名前を合体させたものです。藤子不二雄ですね。
分裂症を取り扱います。
資本主義と分裂症や分裂的な子供とかです。
ですから、ちょっと何をいっているのかわからないところがあります。
全共闘など賢い学生がなにかを言っている感じです。
たとえば、「明晰さとは太陽につけられた傷である」とか、かっこいい言い方をするのは、デリダと同じです。なにかわかったようなわからんような感じです。
したがって、自由な発想というか。分子状無意識とか呼んでいます。ブラウン運動をしている感じです。
世界をもっと自由なものととらえ、一つのまとまった身体という枠組みもなくなっていくし、生命と機械を分けた差もなくなっていくし、自然と人間という分けかたもなくなっていくと考えるわけです。
二人が着目したのは、フロイトから由来した無意識ないしは欲望という言葉と、分裂症なのです。分裂症なので、私は私であって私でないとか私は私でありかつあなたでもあるとかを考えるようになる。
また、ここにもいるし、向こうにもいる。まるで、ハイゼンベルグの不確定性原理や江崎玲央奈のトンネル効果のようなこと考えているのです。
そういえば、昔、巨人の星という漫画で、大リーグボール第1号はニュートン力学の応用で、第2号はハイゼンンベルグの不確定性原理の応用だと言った人がいました。
不確定性原理とは、存在は霧状に確率的にいるってことで、動きと存在の位置は同時には決まらないってことです。
だからこの確率を変化させると、壁の向こうに行くことが出るとして江崎玲央奈がこの効果を利用したダイオードを考えたのです。
いわば、男でも女の部分があったり、女にも男の部分があるので、男であるとか女であるとか決め付けるなって感じです。
イメージは、軍隊であれば指揮命令で動くが、ドウルーズ=ガタリでは個々が考えて動く。ゲリラです。ですから、臨機に対応し、動くのです。まるでアメーバです。
ドウルーズ=ガタリは、欲望が人間を動かしていると考えます。
自分の心の中に自分でもよくわからない欲望がわいた場合、その主語は「I」ではなく、「It」だという考えです。
つまり、個人的な主体なんてものに、あまり重きを置いていないということです。
むしろ、無意識というか、欲望のほうが人間を動かしているという考えです。欲望が大きくなったり結びついていったりするこれが実在なんだと考えました。
つまり、まず関係があって、その関係というものは「欲望」の動きであると考えました。
ドウルーズ=ガタリの考え方は、マルクスと同じようなことを言っています。
マルクスは、歴史的にものごとを考えていきます。資本主義を通過して社会主義になると考えたのです。そして、その仲立ちをしているのが商品であるとしています。
これに対して、欲望を通じた関係というふうに考えたのです。
ドウルーズ=ガタリはこのように言っています。「欲望はその本質において革命的である。革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典ではない。」 キーワードは、「欲望」、「分裂症」、「自由」、「関係」です。
第8話 ロラン・バルトとボードリャール
今回は記号論です。以前の構造主義のソシュールでもやりました。差異の体系です。デリダは書かれたものテキストは、背後にその人の思っている本当の気持ちや意図があって、テキストはその代理であるという考えを批判しました。
ロラン・バルトの説明は、たとえば、歌舞伎の怒った顔の仕草は、怒っているという意味がありました。しかし、今では怒っているという意味を表す以上に、装飾であるとしてその仕草を美術としてみています。
これは、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)の関係を切り離されたのです。
ロラン・バルトは、文には、直接的にその文が表している意味と、間接的•従属的に表している意味があると考えました。この間接的•従属的な部分は、文の中には直接は含まれていないが、ある関係のなかであらわれてしまう。
つまり、記号を分析する場合には、 直接的な意味だけではなくて間接的な意味も分析しなくてはいけないという観点を打ち出しました。
これは、「ダビンチ・コード」の世界ですね。
ここから、糸井重里のキャッチ・コピーなどが出てきます。
なにを言っているのかわからないけど、感性はわかるって感じです。
あるマークがなにかを表象しているようなものです。ハートのマークをつけても、ハートのマークの意味をするのではなく、単にちょっとした気持ちを表すような意味をしているという感じです。
差異の体系は、AとBの間に差異があるのではなく、差異の関係がいろいろな言葉の意味を作り出しているというのがソシュールでした。
調査官の中で差異が生じさせて、上席調査官ができました。先に調査官と上席調査官の区分があるのではないのです。関係の中で差異があり言葉ができたのです。そこから、専門官や統括官、特別調査官が区分されてきたと考える感じです。
上席調査官の中から総括上席調査官でき、専門官の中から主任専門官ができました。東京では上席専門官があります。そのうち総括上席専門官ができきるのでしょう。 仕事の中身が新たにできたのではありません。今はその仕事を誰かがしているのです。
ボードリャールは、例えば、冷蔵庫とはなにかとは、その本質は冷やすものであるという従来の考え方から、人々はものの機能を直接消費しているというよりも、そのものがもたらすイメージ、記号としてもっているイメージを消費していると考えたほうが現代社会を分析できるといいました。
ソシュールは、シニフィエ(意味されるもの:概念:イメージ)とシニフィアン(意味するもの:対象:文字)は表裏一体と考えましたが、ボードリャールは、このシニフィアンがもう何を意味するかということと切り離されて社会の中に浮遊している、現代はそういう消費社会であるといいました。
たとえば、ジーンズは当初反権威的なところがありましたが、これが回帰的に流行しだすと、そこにはある種の差異しかなく、反権威とは切り離されて、一つの記号として消費されていくということです。
この社会のなかで記号はどんどん変化していきます。人々の持っている自由とは、新しい記号やその使い方を見出していく自由です。固定化されるのを嫌うのです。
ロラン• バルトは、この名前に、ロラン・バルトというものが固定されたイメージでくっついてしまうことを避けました。
しかし、「人は死ぬと、もう他者によってしか存在しなくなる」とロラン•バルトはいいました。書かれた本(作品)と同じです。
ニーチェは、「何を言ったかではなく、誰が言ったかだ」といいました。ポスト・モダンでは、「何を言うかではなく、どういう言いかたで言うか」でその新しさを競うことです。
現代世界に生きる私たちは、楽しくてある種の自由を持っていますが、非常に抽象的な不自由さを持っている。
その抽象的な不自由さを持っている部分を、ドウルーズ=ガタリは、欲望が無限に組み合わされていく可能性で超えようとしました。この欲望が資本主義を超えていくと考えました。
ロラン・バルトは、悲観主義的にアナーキー的ユートピアみたいなものを考えました。一見自由で魅惑的なものが、さらに一つの閉じられた体系を作っている。
つまり、このなかではあらゆる過去が神話作用をつうじて現在になっていくのです。 キーワードは、「表象」、「モード」、「イメージ」
第9話フーコー
今回はフーコーです。フーコーは思考をする主体みたいなものが、どういうふうにしてつくられているかという問題意識を、精神病院というものがどういうふうにできているか。
監獄がどういうふうにしてできてくるかという歴史をつうじて批判していったのです。キーワードは、「権力」、「知」、「主体」、「性」です。
権力とは、誰かの政治的権力とかというものではなく、例えば、マニュアルを作成したとすると、このマニュアルの規定からするとはじかれてしまう人がいる。
本当は、ひとりひとりをよくみると、はじかれないかもしれません。しかし、マニュアルの規定からはじかれてしまうことがあります。こういうマニュアルのようなものが権力関係を作っていると考えたのです。
フーコーは、人間は基本的にいいもので、どこかに悪いものとか悪い制度があって、その人間の良さを押さえつけているんだ。人間が人間である本質を発揮できればいいんだというような、この本質は愛であっても何でもいいんですが、いいものを中核に人間という概念があるというように考えています。
次は、狂気(精神分裂症)の歴史の分析です。
つまり、狂気の概念が変わっていっているということです。
当初は、いわゆるきちがいです。そういう人を密室に監禁したりしました。次に、乞食です。さらに酔つ払いや労働しないやつを狂気扱いしました。こういう人を閉じ込めることにより、矯正すると健全なる人間になると考えたのです。
現在でも、心身喪失者や未成年者は、まだ主体としての自分を形成していない人間として、刑務所、精神病院、学校という空間の中に閉じ込めることによって、健全な人間の社会ができると考えています。
近代になって、狂気の分類体系が細かくなっていきます。各症状が分裂病や神経症に区分され、治療の対象となっていきます。
治療にあたり、分裂病の原因は、その人の成育が問題なのか、その人の器質が問題なのかが常に二つのあいだでゆれます。つまり、主観のほうから分裂病を問題とするのか、客観のほうから問題とするのかです。
次に監獄です。看守は囚人が脱走を防ぐために、非常に規則づくめの監視をしていると考えています。以前の監獄は、とにかく酷いところに閉じ込めて置くだけで、規則や時間、衛生に関心を払っていなかったのです。閉じ込めるのが主眼です。
つまり、規則は主体を作ることなのです。
規則で縛ることにより、同時に権力関係を承認していく主体となることです。
つまり、フーコーは、今まで、主体とは権力に対する反抗の根拠として考えられてきたのですが、じつはそういう主体を作ること自体が、近代の権力関係のありかたであるという、権力問題に対する大転換をさせたのです。
最後に性を考えます。性現象というものです。
たとえば、修道士はかなり緻密な告解でした。かれらにとって性的な欲望は罪であったのですが、重要なのは性的な欲望をなくすことではなく、自分がどういう性的な欲望をもっているかということを細かく分析することによって、自分を正しく認識することだったのです。
分析し、認識することにより、いかに自分をコントロールできるようになるかを目指していたと考えます。
つまり、主体を形成するに当たり、「知」が必要であるということです。認識するということは知るということです。そして、そこには権力関係があるということです。そして、性的表現の自由こそが一番反権力的であるという信念を持っていたわけです。
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2022.08.01事務所通信第154号 法人税法施行令第8条(資本金等の額)Part10 (株式交換3)
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2022.07.31事務所通信第152号 有価証券の取得価額Part 6 株式交換
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2022.07.30事務所通信第151号 法人税法施行令第8条(資本金等の額)Part 9 (株式交換2)
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2022.07.25事務所通信第149号 法人税法施行令第8条(資本金等の額)Part 8(株式交換1)
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2022.07.10事務所通信第143号 法人税の重加算税の取扱い(個別通達)について1